エッセイ「同じを支える」という役割
私は「同じ」が苦手だ
「人と同じ」が苦手なだけでなく
「いつもと同じ」も苦手だ
いつもと同じだと退屈になってしまい
なにか変えることはできないかと模索している
つまり、常に変化を求めているのだ
こんな性格もあって
言語聴覚士として働いていたときには少々苦労した
言語リハビリというのは
そうそう簡単に変化が目に見えない
若干の変化はあったとしても
患者さん自身にはそれはわかりづらく
変化として捉えられないことも多い
そして毎日同じリハビリメニューを
提供することが正直私には苦痛だった
患者さんが
「またこれをやるのか」
と思っているような気がしてならないのだ
私自身が「いつも同じ」を嫌う性格だから
患者さんもそう思うのではないかと
いつもびくびくしていた
そして、そう思われないように
新たなリハビリメニューを考えるのに必死だった
しかしそうそう
新しいメニューを提供できるわけでもなく
よく自滅していた
最近になってわかったことがある
なにかを継続するためには誰かの支えが必要
ということだ
自分ひとりでなにかを継続するには
相当な強い想いと恵まれた環境が必要だ
(今回は後者に関しては置いておく)
継続するための相当な強い想いというのは
なかなか持てるものではない
人間は弱い生き物だ
天気や気温や体調やスケジュールによって
継続をあきらめてしまうことも多い
しかしここで共に頑張る仲間の存在があったら
話は変わってくる
「○○も頑張ってるんだから自分も頑張ろう」
という気になるのだ
これは紛れもなく大きな支えとなる
言語聴覚士として働いていたころ
私は「いつもと同じ」がいけないと思っていた
軽度の患者さんであれば自主練メニューを渡し
自主練をするよう促すが
自主練ができる患者さんばかりではない
しかし自主練ができなくても
1日1回スタッフと共に
そのメニューをこなすことができるのなら
いつもと同じことをすることにも大きな意味が存在する
患者さんの「いつもと同じ」を
支える役目があったことに
最近ようやく気付いたという
なんともまぬけな話だ
しかし今その頃のことを悔やんでも仕方がない
今改めて思うこととして
私の今の「いつもと同じ」を支えてくれる人に
感謝したいということだ
それは家族だったり
同じ志を持つ仲間だったり
同じ場所に集う友人だったり
「いつもと同じ」が苦手な私だけれども
同じであることの安心感もあるはずだ
それを提供してくれている人たちに
感謝していきたい