エッセイ「当たり前を支える」という偉業

私たちは「当たり前」になっていることに対し
そのありがたみに気付けていないことが多い

部屋がきれいだとなんとも思わないが
埃が積もっていると「掃除してない」と
思うものだ
埃がないことが「当たり前」になっているが
放置しておけば埃は積もるものだ

部屋がきれいだという
「当たり前」を支えるには
それなりの時間と手間を伴う

私も思春期のころは
色々やってもらえることが当たり前になっていた
そしてそれに感謝することも
十分できていなかったように思う

毎日ご飯が出てくるのが当たり前
毎日洗濯してもらえるのが当たり前
夏は涼しく冬は暖かい家で生活できるのが
当たり前・・・
どこかそんなふうに捉えてしまっていた

しかしその私の「当たり前」を支えるには
いろんな人の尽力があった

母と祖母が家事をしてくれていたり
父と母が働いてお金を稼いでくれたり
それだけでなく、そもそも
食材が手元にあることや
家に電気がきていることや
蛇口をひねれば水が出ることだって
誰かが働いてくれたからこそだ

作ってくれた人
運んでくれた人
そしてそれを手に入れるためのお金を
用意してくれた人などがいるわけだ

結婚し子どもを産み
今度は私が家族の「当たり前」を
支える立場となった

控えめに言ってこの「当たり前を支える」
という行為はなかなかに大変だ

毎日掃除機をかけていても掃除機に埃は溜まる
食事は1日に3回作らなければならない
洗濯物も毎日溜まる

家族が家で快適に過ごすための環境を整えるのは
想像以上に苦労する

私たちは誰かの「当たり前」を支えるために
生きているのかもしれない

皆、誰かの「当たり前」を支えている

仕事や家事をしていなくても
存在としての「当たり前」を
誰かに提供している

いてくれることが「当たり前」なのだ

少なくとも私の子どもたちは私に
存在としての「当たり前」を
贈ってくれている

人はひとりでは生きていけない

皆、誰かの「当たり前」を支えて生きている
これはなかなかの偉業ではないだろうか

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