エッセイ「方言の存在意義」という郷愁

私は小学生のころ自分の方言が嫌だった
当時住んでいたのは某県の県庁所在地であり
「方言が強すぎて通じない」
というほどではないのだが
標準語に比べてなんとなく汚い印象の自分の方言が
どうも嫌いだった

友だちと方言を使わずに喋ろうと
「白鳥麗子でございます」のまねをして
喋っていたこともあったような…(笑)

それにも飽きて(諦めて)
普通に方言でしゃべり続け
私はあるとき言語聴覚士になった

言語聴覚士の仕事領域にも様々あるが
私の場合は高齢者の方へのリハビリがほとんどで
高齢者の方とお話することが多くなった

最初の就職先は地元だったため
方言そのまま、というよりむしろ
方言強調気味で仕事に臨んでいた

その方が患者さんに親近感を覚えてもらえるのだ

その後、引っ越して地元を離れ
異なる土地へ行ってからも
そうそう簡単に方言が抜けるわけもなく
そのまま喋り続けていた

すると時々患者さんから
私の地元を当てられることがあるのだ

ご自身の地元が同じという人もいれば
パートナーやお友だちなど近しい人が
話していたことばに近いと言われる人もいた

そして皆さん懐かしんでくれるのだ

私はそのとき、小学生時代にあんなに嫌だった方言が
こんな形で活かされることもあるんだと思った

患者さんの郷愁のお手伝いとなった私の方言

正直なところ、Audibleの収録にあたっては
方言はマイナスに働いてしまう
Audibleでは基本的に標準語でないと許されないようだ

それでも私は自分の生まれ育った土地の証として
そして感謝を込めて
自分の方言を大切にしていきたいなと現在は思っている

皆それぞれいろんな土地で生まれ
その後いろんな土地へと移り住んでいく

でもそこで出会った人と同郷だとわかると嬉しい
一気にその人と距離が縮まる感覚さえ覚える

これこそが方言の存在意義だ
小学生の私はなにもわかっていなかったんだな

もちろん標準語もちゃんと使えるようになりたいけどね

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