エッセイ「どっち似」という無意味論

子どもを産んだ後
両家の親や親戚、近所で
決まってたびたび話題にあがる話がある

「この子はどっちに似ているか」である

目のあたりは父親に似ている
口元は母親に似ている

はたまた
笑った顔は父がたのおじいさんに似ているとか・・

面白いことに人によって言うことが違う

うちは息子がふたりいるが
  おにいちゃんがおとうさん似で
  弟くんはおかあさん似だね
と言われた次の日に、逆のことを言われたりする

私はこの「どっち似」論は
完全に無意味だと思っている

というか、この上なくどうでもいい

私に似ていようが夫に似ていようが
私が産んだことには変わりない
そして
その父親は夫であることは紛れもない事実だ

夫の親はじめ、夫側の人間は
夫(父親)に似ていないと不安に思うのだろうか

まったく・・・迷惑な話だ
あらぬ疑いをかけないでいただきたい

いずれにせよ「どっち似」議論が始まると
私は決まって「どーでもいぃー」と思いながら
生暖かい目をしながら聞き流していたものだ

私に似ていようが
夫に似ていようが
我が子がかわいいことに変わりはない
そして私が産んだことにも変わりはない

というかむしろ私に似ないでほしい
そのほうが男前になりそうだ
そしてあらぬ疑いをかけられなくて済む

夫側の人間の
「夫に似ている主張」は少々煩わしい
そして
もしも夫に似ていなかった場合
何を言われるんだろうと
考えるだけでも恐ろしい

「どっち似」かについて語り合うことについて
意味はあるのだろうか
それが幸せの象徴なのだろうか
私には無意味な議論に思えてならない


我が子はかわいい
それで十分だ

エッセイ「どっち似」という無意味論” に対して2件のコメントがあります。

  1. 小林知樹 より:

    こちらの内容面白かったです。どっちに似ているはあるあるですね☺️

    1. hidate-midori より:

      小林知樹さん
      コメントありがとうございます。
      子どもが小さい頃の話題あるあるですよねー
      楽しんでいただけて光栄です
      ありがとうございます

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